京都人も知らない!ミステリー?三十三間堂の謎
三十三間堂は二つあった!?じゃ66間堂?バカなことを言いました。
失礼しました。
正式名称は「蓮華王院」。
三十三間堂の名は、お堂内陣の柱間が三三あることにちなんだものだ。
手前からはるか彼方へと南北120メートルの一直線に伸びた細長いお堂のなかには、
1001体の手前観音像がズラリと並び、まさに壮観である。
この贅沢なお堂を造ったのは、平家の栄華を極めた平清盛である。
三十三間堂は、1164年に平清盛が後白河上皇の
院御所内に寄進するために建設したものだ。
いわば当代随一の権力者が30年も君臨していた上皇のための建設したものと
聞けば、贅を尽くした建築にも納得がいくはずだ。
ところがこれで驚いてはいけない。
かつては、もうひとつ三十三間堂が存在した、つまり三十三間堂が二つ存在していたのである。
では、いまや幻となった三十三間堂は誰が建てた、どのようなものだったのだろうか。
もう一つの三十三間堂は、清盛の父、平忠盛が建てたものだった。
平忠盛は当時すでに莫大な財力を誇っていたが、
朝廷ではまだ身分が低く、何とかして御所の建物内に入れるよう上級貴族・殿上人になりたいと願っていた。
そこで、忠盛は鳥羽上皇の歓心をかうため、今の平安神宮近くに、白川の得長寿院を建てて寄進したのだ。
柱が三三あり、千手観音が1001体安置された蓮華王院と同じ見事な三十三間堂。
この壮大さに上皇は感心したのか、忠盛はトントン拍子に出世し晴れて殿上人への仲間入りを果たしたのである。
そして、それから三二年後、息子の清盛が新たな三十三間堂を建設し京都には二つの三十三間堂が並存することになった。
ところが、平家が滅亡したのと同じ年の一一八五年、得長寿院は京都を襲った大地震によって倒壊してしまう。
初代の三十三間堂は、まるで平家の栄枯盛衰と連動するかのごとく姿を消し、幻の存在となったのである。
一方、蓮華王院はのちに1249年に火災で焼失したが、1266年に再建されて、その後を今に伝えている。
* 三十三間堂の1001体の千手観音像のなかには会いたい人に似た像が必ず一つあるといわれ、恋人に似た像を探す人もいるとか。
門前は朝八時(二月十六日~三月は九時)なので、混雑を避けるなら朝一番がオススメ。
千手観音が1001体は、みごとです、黄金に輝くきれいな仏様がずらり並んでおられます。お顔が全部ちがうと言いますが、
正直、私には同じお顔に見えます。罰あたりですみません。
1月の成人式の弓ひきの儀式がある。
20歳の若者が全国から集まる。美しい女性が振袖袴で大きな弓を手に持ちに語やかな成人式をしています。
京都人より他県から来る人が多いということです。
お寺がこの日ばかりはうつししい花園になるようです。そうそうイケメンくんも袴で凛々しいすがたで、礼儀正しい若者にうれしく思います。
では、